2000/10/12(木)晴
井の頭報告
いきなり暑い。吉祥寺駅前の電光温度計は32℃と表示していた。もう10月半ばだというのに、どうなっているのだ。
池の西部の細い橋の上で、リコーダーを練習している中年男性がいた。「遠くへ行きたい」のメロディーを繰り返し吹いている。
まあそれはそれとして別に良かったのだが。
「♪レーーミファーラーソーラソファーミー」と、ここまではよろしい。問題は、その次の「♪レミファーラードーレドシー」の最後のシの音だ。どうもこの人はシのフラットの押さえ方を知らないらしく、これが何度やってもナチュラルのままなのだ(キーがDマイナーだから本当はフラットが付かなくてはいけない)。
本人も「ちょっとおかしい」と思っているらしく、この最初の4小節ばかり何度も繰り返し吹いては首をひねっている。元が寂しいメロディーなだけに、間抜けな事この上ない。
おじさんは繰り返す度にムキになり、ボリュームはどんどん上がっていく。通行人は皆このシュールなメロディが気になって仕方がない様子だ。「シ」の音のタイミングでここにいる全員ずっこければ、そのまま「吉本」の世界である。
それにしても、たった半音違う音を出すだけでこうも世間の注目を浴びるとは。おじさんおそるべしである。
正しい押さえ方を教えてやろうかとも思ったが、このままの方が面白いのでとりあえず放っておいた。それに、難しい言い方をするとこの人が吹いているのはDのドリアン・スケールで、まあモーダルな響きと言えなくはなかったし。
2000/10/14(土)晴
井の頭報告
今日は暑くもなく、普通の秋の一日だ。
いかつい顔をした、三人連れの若い外人男性が歩いていた。いかにも不良外人といった風情である。
パンク風のファッションで青く染めた髪を逆立て、しかも腕や肩にはタトゥーなんぞ入れている。一人は黒人で、ヘビー級のボクサーみたいなごつい体つきをしていた。これが大声で陽気に喋りながら歩いているので、体のちっこい日本人としてはどうしても避けて歩いてしまう。
このように理不尽な威圧感を感じるというのは、結構不快なものである。これはもちろん彼らに責任があるわけではないのだが。
しかし、実は彼らは非常に礼儀正しい人たちであった。
売店でビールを買うときに、妙にまじめな顔をして
「オバチャン、ビール、三ツ、クダサイ。」
と丁寧な言葉遣いをしていた。そしておばちゃんからビールを受け取ると
「ドウモアリガト、コンニチハ、サヨナラ。」
と言って去っていった。
こういう場合は「コンニチハ」はいらないんだよと教えてやろうかとも思ったが、やっぱりこわかったので放っておいた。
2000/10/17(火)曇り
西荻窪駅前のミスター・ドーナツにて
今日はちょっと寒い。
実はこのところ仕事が暇である。原稿が遅れているのだ。締め切りはもう決まっているので、これからしわ寄せが来て大変だろうが、もうこういうのにも慣れてしまった。とりあえず思う存分練習が出来て嬉しい。
しかし一日家の中にいるとさすがに息が詰まってくるので、気分転換に西荻窪駅前のミスター・ドーナツに行った。
コーヒーを飲みながら本でも読もうと思っていたのだが、BGMがうるさくてとてもそんな気になれない。だからただひたすらぼうっと座っていた。この頃こういう時間の過ごし方が全く苦にならず、むしろ快適に思えるようになった。あと5年もしたら「恍惚の人」になるかも知れない。
ときどきおばさんの客に勝手にあだ名を付けて遊んだりした。「牢名主」とか「二の腕チャンピオン」とか。こういう場合、怪しい人と思われないために「あまりきょろきょろしない」「読まなくても一応本は開いておく」といったテクニックが必要だ。
しばらくすると、制服を着た小学校4年生くらいの男の子とそのおじいさんらしい、二人連れの客がやって来た。店内は混んできていたので、しばらくうろうろしてからやっと空いた席を見つけ、ほっとしたように二人そろって座った。その間、二人には全く会話が無い。
子供は落ちつきの無い様子で手に持った帽子をもてあそび、時々首を曲げてカウンターの方を振り返る。おじいさんもどういうわけか全く子供に話しかけようとしない。子供があまりおじいさんになついていないのか、それともお互いまだあまり会った事が無く、会話の糸口がないのか。とにかく二人の間にはそういった妙な緊張感が漂っていた。
そのまま10分くらい経っただろうか。ようやく私はどうやらこの人達は店員が注文を取りに来るのを待っているらしいという事に気が付いた。
なるほど、このぎくしゃくした空気はそのせいだったのか。納得できたので、私は満足して店を出た。ドーナツはカウンターで買って来るんだよと教えてやろうかとも思ったが、差し出がましい気がしたので放っておいた。まあどうせそのうち気が付くだろう。